政局は「予期せぬ出来事」が発生した時、急展開する。だが、それはすべての人にとって「予期せぬ出来事」とは限らない。権力中枢に身を置く限られた者にとって、それは「予定通りの出来事」なのだ。それが表沙汰になった時、彼らは一歩も二歩も先を進んでいる。
昨年秋の安倍晋三首相の退陣もそうだった。「体調」を理由とした突然の退陣表明に、日本中が騒然となった。しかし、安倍首相本人や限られた側近にとって、ギリギリまで最終決断を悩んだことはあるにせよ、それは「予定された選択肢の一つ」であった。安倍官邸の真ん中に陣取り、政府内からあらゆる情報が集約される立場にあった当時の菅義偉官房長官も「安倍首相の異変」の気配を感じていたはずだ。
当時、安倍首相は自らの後継者として岸田文雄政調会長が望ましいと考えていた。岸田氏は安倍氏と同じ世襲議員で、安倍氏に従順であり、決して裏切ることはないと確信していたからだ。安倍氏の盟友である麻生太郎副総理もそれを理解していた。一方、安倍氏が絶対に回避したかったのは、自らへの批判を繰り返していた石破茂元幹事長に政権を明け渡すことだった。たたたきあげで政界工作を得意とする菅氏については、石破氏ほどではないにしても、若干の警戒感を抱いていた。
菅氏は安倍首相の思いを十分に承知していた。「安倍首相の異変」を察した時、座して待つと「岸田氏への禅譲」の流れができてしまう。「岸田政権」が誕生すれば、安倍氏と麻生氏が実権を握り、自分は冷遇されるだろうーー菅氏はそう考えた。そこで、二階俊博幹事長と手を組み、安倍氏が最も嫌う石破氏を支援する動きをみせたのだった。
慌てたのは、安倍氏と麻生氏である。国民的人気のあった石破氏と、不人気の岸田氏の一騎討ちになれば、石破氏に軍配があがる可能性が高い。そうなると安倍氏も麻生氏も一挙に力を失い、「石破・二階・菅」連合に実権を奪われてしまう。それだけは避けねばならないーーそこで安倍氏と麻生氏は「石破政権」を回避するために岸田氏を見捨て、次善の策として「菅政権」に便乗したのであった。
菅政権が自民党内の圧倒的多数の支持を得て誕生したのは、以上の構図による。安倍首相の退陣表明からほどなく、菅政権誕生の道筋は出来上がっていたのだ。岸田氏も石破氏も所詮は「当て馬」でしかなかった。安倍首相退陣という「予期せぬ出来事」をいち早く察知し、「石破氏擁立」の動きを早々にみせて「岸田政権」をあきらめさせ、最後は「菅政権」に落ち着かせるという、「菅・二階」連合の迅速な仕掛けの勝利といえた。
ここで昨年秋の政局を蒸し返して私が伝えようとしているのは、「予期せぬ出来事」が起きる前にそれを織り込んで政局シナリオを仕込む者が権力闘争を制するという現実である。
さて、これを今の政治情勢に置き換えるとどうなるか。多くの永田町関係者たちが今「予期している」政治の流れは以下のようになる。
菅首相は今夏の東京五輪を絶対に開催する覚悟だ。今は支持率が低迷していても、東京五輪を開催すれば世の中のムードは変わる。そのころにはワクチン接種も進み、支持率は上向いてくるだろう。そこで東京五輪・パラリンピックが「成功」に終わった後の今年9月に衆院解散・総選挙を行って勝利し、同月の自民党総裁選を乗り切る(または東京五輪の「成功」を受けて9月の自民党総裁選を乗り切った後に総選挙に挑む)ーー
私も菅首相が想定している「ベストシナリオ」は上記のようなものだと考えている。その場合、ことしの9月と10月は総選挙と自民党総裁選がひしめく「政治の季節」となる。
一方で、菅首相本人は「ベストシナリオ」とおりに物事が運ぶとは限らないとも思っているのではないか。「次善の策」を必ず用意しているはずだ。
ワクチン接種が順調に進んでコロナの感染拡大が収まるとは限らない、さらに東京五輪が土壇場で中止に追い込まれる可能性も十分に想定しているだろう。いくら菅首相が「断固開催する」覚悟であっても、国際社会から不参加の表明が相次ぎ、宿敵の小池百合子東京都知事が「撤退」を表明すれば、強行開催の道は閉ざされる。
東京五輪が中止に追い込まれたらーー。まさにこれが目下の「予期せぬ出来事」だ。客観的にみたら「十分に予期できる出来事」なのだが、首相の近いところにいる人ほど「菅首相の五輪開催の決意は固い」と思ってしまい、予期していないのだ。野党も政治記者も得てしてそうなりがちだ。しかし周りが思う以上に、権力者自身はあらゆる可能性を想定しているものである。
東京五輪が中止に追い込まれたら、もはや菅首相は解散総選挙で掲げる「実績」がない。何を主張したところで、「五輪中止の政治責任」を問われ、劣勢に立たされる。それほどに五輪中止のインパクトは大きい。菅首相自身がそれをいちばん痛感しているのではないか。
菅首相は現実的な政治家である。五輪中止に追い込まれたあげく、劣勢のまま自ら解散総選挙に突き進んで惨敗した場合、自らの政治生命は完全に終わることを十分に承知しているだろう。何がなんでも政権にしがみつくには、「東京五輪中止」を吹き飛ばす起死回生の一手が不可欠だ。
私が菅首相側近なら、次のように進言するだろう。東京五輪中止の決定にあわせて、「コロナ撲滅」を掲げて全国一斉の緊急事態宣言を表明し、同時に現金の一律給付を宣言する。昨年は一律10万円だったが、同額ではインパクトに欠けるので、一律20万円に引き上げる。そのうえでが外出自粛・営業自粛を徹底し、感染拡大が収まったところで衆院を解散し、総選挙になだれ込むーー。
このシナリオに立ちはだかるのは、現金一律給付に強く反対する麻生副総理兼財務相だ。菅氏と主導権争いを続けている麻生氏が菅政権継続に気前よく手を貸すとは思えず、この攻防は熾烈を極めるであろう。「東京五輪中止」を吹き飛ばす「現金一律給付」に手間取るようなことがあれば、菅政権は万事休す。支持率は急落し、解散総選挙に踏み切れないまま9月の自民党総裁選で不出馬に追い込まれ、無惨な退陣を強いられることになりかねない。
菅首相がそうしたリスクを回避して今後の政界に影響力を残すことを優先するのなら、「東京五輪中止」と同時に「電撃辞任」する可能性もあろう。意中の後継者をひそかに用意し、突然の「東京五輪中止決定」と同時に先手を打って退陣表明し、ただちに自民党総裁選を実施して、意中の後継者が地滑り的に勝利するシナリオを密かに練り上げているのではないか。そうすれば、菅首相は安倍氏や麻生氏に主導権を奪われることなく「次期政権の生みの親」として影響力を残すことができる。ボロボロになって退陣するよりはるかにマシだ。
意中の後継者として想定しているのは、同じ神奈川県選出で親しい関係を築いている河野太郎氏だろう。河野氏は麻生派に所属している。世代交代を嫌う麻生氏はかねてより河野氏の総裁選出馬に反対してきた。河野氏を擁立してバトンタッチできれば、宿敵・麻生氏の政治力をさらにそぐことも可能だ。この場合、河野氏は新政権発足の勢いに乗じて、ただちに解散総選挙に踏み切る公算が大きい。
ここで重要なのは、菅首相が政権維持にこだわる場合も、河野氏に「禅譲」する場合も、東京五輪が中止になれば政局は急展開し、今年10月の衆院任期満了を待たずに解散総選挙になだれ込む可能性が出てくることだ。野党は9月〜10月の総選挙を念頭に準備を進めているようだが、東京五輪中止という「予期せぬ出来事」が起きた場合、解散総選挙は一気に6〜7月に前倒しになる可能性がある。その時、「予期していなかった」と悔いても後の祭りである。
政局は「予期せぬ出来事」が発生した時、急展開する。それが「東京五輪中止」であることを十分想定し、急展開に備えなくてはならない。