政治を斬る!

新聞記者やめます。あと56日!【「左右対決」から「上下対決」へ転換せよ!〜「なぜ野党の支持率はあがらない?」にお答えします】

菅義偉首相にとって最大の関門は野党と議席を争う「解散総選挙」ではない。安倍晋三前首相や麻生太郎副総理が立ちはだかる「自民党総裁選」である。永田町に吹き始めた「解散風」は「安倍・麻生」vs「菅・二階」の党内権力闘争から生じたものだーー『新聞記者やめます。あと58日!【安倍氏と麻生氏が衆院解散を煽るその心は?】』で現下の政局をそう読み解いたところ、たくさんの反響をいただいた。政局記事への世間の関心は低いと思っていたが、実は違うのではないか。単に新聞の政局記事に読者の皆さんが満足していないだけではないか、と思った次第である。

数多く寄せられたご意見・ご質問のなかで最も多かったのは「自民党内の権力闘争の構図はよくわかったが、なぜ野党への期待が高まらないのか」という内容だった。この答えを深く掘り下げると一冊の本になってしまいそうだが、きょうはその核心部分だけお示ししたい。

「日本の有権者は右3割、左2割、その他5割」というのは政界やマスコミ界でほぼ通説になっている。ここでいう「右」と「左」は強いイデオロギーを示すものではなく、「右=地域や組織の同調性を大切にするなんとなくの保守」と「左=個人の意思や人権を大切にするなんとなくのリベラル」というくらいに緩やかに理解していただければよい。そして「その他」は「政治的無関心層」と考えていただいて差し支えない。

安倍政権が国政選挙に6連勝した構図をざくっと総括すると、「投票率は5割(つまり無関心層が投票にいかず)で、右の3割が与党に、左の2割が野党に投票し、与党が3対2で競り勝った」といっていい。この「3対2」の僅差が衆院選の小選挙区制においては与党の地滑り的勝利につながったのである。

野党はこの構図を続けている限り、いつまでたっても「3対2」で敗れつづける。現状より議席を積み増して「躍進」と言おうが、過半数にもう一歩まで迫って「善戦・惜敗」と言おうが、過半数に達しなければ負けは負けだ。「選挙制度が民意を反映していない」といくら言ったところで、政権交代にはつながらない。アカデミックに、ジャーナリスティックに選挙制度を見直す努力はもちろん必要だが、当事者である政党がそうした言い訳をしても始まらない。現状の選挙制度で与党に打ち勝つ現実的な戦略を組み立てるしかないのである。

私はこの「左右対決」の構図そのものを改めない限り、野党は万年野党であり続けると思っている。残りの5割、つまり無関心層の5割の心を惹きつける政党に生まれ変わらない限り、勝ち目はない。

この「無関心層」は「無党派層」とイコールではない。「無党派層」は支持政党がないだけで、政治への関心がないわけではない。新聞やテレビで政治ニュースを読むし、ふだんは政治に無関心であっても「政権の不正」を目の当たりにしたら怒りがわいてくる。こういう人々は選挙に足を運ぶ。その怒りは「野党への一票」という形で現れることが多いだろう。その時、「3対2」はより接戦になる。与党はそれを恐れ、彼らの怒りを鎮めるために、時にバラマキ公約を掲げ、時に野党の公約を横取りする。そうして接戦を制してきたのだった。

2009年の民主党政権誕生は、自民党があまりにも腐りきり、幅広い有権者の怒りが頂点に達し、投票率が7割近くに跳ね上がって起きた歴史的事件であった。大雑把にいうと、5割の無関心層のうち5人に2人が選挙へ行き、野党に投票したのである。その結果、「3対2」は「3対4」に逆転し、民主党が地滑り的に勝利したのだった。

ところが、その後の民主党政権の大混乱を目の当たりにし、有権者は絶望し、政治に冷めてしまった。もはや「怒り」だけでは政権交代は起きない。「怒り」は「あきらめ」に転じ、無関心層をより強固な「無関心層」に作り上げてしまったのだ。与党がよほどの失態(モリカケサクラをはるかに上回るレベル)を重ねない限り、選挙を何度実施したところで「投票率5割、与党が3対2で競り勝つ」ことが繰り返されるであろう。

では、どうしたら良いのか。「政権の不正」を待つばかりではなく、野党が根本的に変革しなければならない。「左の2割」ではなく「無関心の5割」を代表する政党に生まれ変わるしかないのだ。

ここで勘違いしてはならないのは、「無関心」の人々は日々の生活に満足しているから「無関心」なのではない、ということである。逆だ。永田町の政治家や霞ヶ関のエリート官僚なんて遠い世界のこと、それを伝える新聞記者も遠くの人々、自分たちには関係ない、どの政党が勝とうが負けようが自分たちの暮らしは何も変わらない、とあきらめているのである。

政治家や官僚や新聞記者の多くはこうした人々の気持ちがわからない。なぜなら、彼らの大半は、恵まれた家庭に育ち、進学校から有名大学を卒業した「エリート」だからだ。無関心層からすれば、どの政党も、どの省庁も、どの新聞社も、所詮は「エリート」の集まりであり、自分たちとは違う側の人々だと思っている。ここに大きな「社会の分断」がある。

野党はこうした人々にリーチするしかない。そのための第一歩は自分たちのエリート臭を消すことだ。そして「あきらめた人々」の側に立つのである。「左=リベラル」の旗を降ろせと言っているのではない。個人の自由や人権を大切する理念は掲げつづければよい。だが、それはメインの公約ではない。メインの公約には「あきらめた人々」の声を代弁するもの、貧富の格差、階級の格差、教育の格差など「格差社会」を改める経済政策・所得再分配の政策を大々的に打ち出すべきなのだ。

私はこれを「左右対決」から「上下対決」への転換と呼んでいる。「エリート」と「あきらめた人々」の分断を「上下」というかたちで表現するのはいささか躊躇があるが、「上級国民」という言葉が流行したように、これ以上にわかりやすく、多くの人々のこころに届く表現はなかなか見当たらない。

私自身、母子家庭で高校時代から奨学金をいただいて通学し、どちらかというと「あきらめた人々」の立場に近いところで生まれ育ってきた。新聞社に入社してみると、同僚の多くは実家が裕福で、親が高級官僚だったり、学者だったり、大企業の社員だったり、新聞記者だったり。都会の進学校から偏差値の高い大学へ進んだ「エリート」が圧倒的に多かった。そうした集団に身を置きながら、常に「あきらめた人々」を代表して記事を書こうと心がけてきたつもりである。

野党の支持率が上がらない理由は、私の新聞社の読者離れが進む理由ととてもよく似ている。その最たるものは、自分たちの存在意義を「左」に置いていることであると私は思う。軸足を「左」から「下」へ、「価値の実現」から「暮らしの救済」へはっきりと移すことが重要だ。政治とは「暮らし」なのだ。

野党は「下」の人々の心を惹きつける「格差是正・所得再分配」政策を公約の柱に掲げ、「下」の人々とともに歩んできた候補者をそろえることで、「あきらめた人々」を代表する政党に衣替えしたほうがよい。エリート集団から離脱して「あきらめた人々」と同じ側に立つのである。そして「あきらめ」を「希望」に変えるのだ。

日本社会は衰退の一途をたどっている。「あきらめた人々」はますます増えていくだろう。野党が彼らから「上級国民の仲間」と思われている限り、政権交代は永久に実現しない。「エリート集団からの離脱」こそ、与党がもっとも恐れる野党の姿だ。

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