東京高検検事長と朝日新聞「社員」らの賭け麻雀を「文春砲」が報じたのは昨年5月20日。それから6年前の同じ日(2014年5月20日)の朝刊で朝日新聞が報じたのが「吉田調書」のスクープであった。当時の紙面を見ると、一面トップに『所長命令に違反 原発撤退/政府事故調の「吉田調書」入手」』の見出しが踊っている。
その記事の前文を再掲しよう。
東京電力福島第一原発所長で事故対応の責任者だった吉田昌郎氏(2013年死去)が、政府事故調査・検証委員会の調べに答えた「聴取結果書」(吉田調書)を朝日新聞は入手した。それによると、東日本大震災4日後の11年3月15日朝、第一原発にいた所員の9割にあたる約650人が吉田氏の待機命令に違反し、10キロ南の福島第二原発へ撤退していた。その後、放射線量は急上昇しており、事故対応が不十分になった可能性がある。東電はこの命令違反による現場離脱を3年以上伏せてきた。
この記事の出稿責任者は、調査報道に専従する特別報道部デスクの私であった。取材・執筆したのは、私より先輩のベテラン記者二人である。
反響は絶大であった。読者からは絶賛する声が多数寄せられ、記者二人には他メディアから取材依頼が相次いだ。私は上司から「社長も喜んでいる。今年の新聞協会賞はこれで決まりだと言っている」と伝えられ、さっそく「編集担当賞」受賞が内定したと知らされた。
私のもとには社内から称賛のメールが続々と届いた。この連載を書くために当時のメールのひとつひとつに改めて目を通したが、あれから数ヶ月後の彼らの立ち振る舞いを思い浮かべ、人というものはかくも豹変するものなのかと、やりきれない思いになった。この記事に潜む「弱点」を当初から社内で指摘してくれたのは、ほんの一握りの記者であった。
「吉田調書」キャンペーンの狙いは、ふたつあった。ひとつは、政府が非公開にしてきた「吉田調書」を独自入手し、その内容を報道することで、当時の原発事故対応を社会全体で再検証することである。記事本文に続く一面解説で、その狙いを端的に示した。
《解説》吉田氏が死去した今、「吉田調書」は原発事故直後の現場指揮官が語る唯一の公式調書だ。肉声がそのまま書き残され、やりとりは録音されている。分量はA4版で400ページ超。事故対応を検証し、今後の安全対策にいかす一級の歴史的資料だ。
ところが、政府事故調は報告書に一部を紹介するだけで、多くの重要な事実を公表しなかった。中でも重要な「9割の所員が待機命令に違反して撤退した」という事実も伏せられた。
事故の本質をつかむには一つひとつの場面を具体的な証言から再現・検証する必要がある。国は原発再稼働を急ぐ前に、政府事故調が集めた資料をすべて公表し、「福島の教訓」を安全対策や避難計画にいかすべきだろう。
吉田調書にはこのほかにも国や東電が隠している事実が多く含まれ、反省材料が凝縮されている。私たちは国や東電の事故対応の検証を続けていく。
政府は「不都合な事実」である「吉田調書」を隠してきた。それを世の中に提示し、広い視点で再検証することは、この国のエネルギー政策を考えるうえで必要不可欠である。それが第一の狙いであった。
もうひとつの狙いは、そこから議論を掘り下げ、「原発が暴走したとき、誰がそれを制御するのか」という根源的な問いを投げかけることだった。それを棚上げしたまま、原発再稼働に突き進んで良いのか。この視点は2面の解説で示した。以下のとおりである。
暴走する原子炉を残し、福島第一原発の所員の9割が現場を離脱したという事実をどう受け止めたら良いのか。吉田調書が突きつける現実は、重い課題を投げかけてくる。
吉田氏は所員の9割が自らの待機命令に違反したことを知った時、「しょうがないな」と思ったと率直に語っている。残り1割の所員も原子炉爆発の場合の大量被曝を避けるため、原子炉を運転・制御する中央制御室でなく、免震重要棟2階の緊急時対策室にほぼ詰めており、圧力や水位など原子炉の状態を監視できない時間が続いた。
吉田調書が残した教訓は、過酷事故のもとでは原子炉を制御する電力会社の社員が現場からいなくなる事態が十分に起こりうるということだ。その時、誰が対処するのか。当事者ではない消防や自衛隊か、特殊部隊を創設するのか。それとも米国に頼るのか。
現実を直視した議論はほとんど行われていない。自治体は何を信用して避難計画を作れば良いのか。その問いに答えを出さないまま、原発を再稼働して良いはずはない。
私たちのキャンペーンは、原発事故の現場を離れた所員たちを追及することが狙いではなかった。過酷な原発事故がいったん起きれば事故対応にあたる人が現場からいなくなる事態は十分に起こりうるという現実を社会全体で共有し、そこから原発政策を考えていく必要がある。この解説でそうした問題提起をしたつもりであった。
私自身がデスクとして出稿した記事をいま改めて読み返してみると、問題提起自体はまったく間違っていなかったという思いを強くする。一方で、文章表現や見出しにいくつか配慮に欠けた部分もあった。①吉田所長が待機命令を発したこと②所員たちが命令に違反する形で現場から離れたことは事実であるにしても、のちに多くの方から指摘されたように、事故直後の混乱状況において、吉田所長の命令が所員全員に確実に伝わったとは言い切れない。吉田所長の「命令」をどう解釈するかについても様々な見解がある。そうしたことを踏まえ、文章表現や見出しに改善の余地があったことは否めない。ここは反省すべき点である。
記事掲載後はそうした問題点を指摘する声はさほど広がらなかった。当初は政府や東電を支持する右派勢力による愛国主義的な視点からの批判がくすぶる程度であった。5月末ごろになり「吉田所長の命令が届かなかった所員について『命令違反』と断じるのはいかがなものか」という批判が出始めた。これは第一報に潜む「弱点」であった。
私はこの点、第一報直後に社内のごくわずかの記者から指摘され、気になっていた。そこで、記事の狙いは退避した所員の責任追及にあるのではなく、過酷な原発事故下で十分に起こりうる事態にどう備えるかを問題提起することにあるというキャンペーンの趣旨を丁寧に説明する続報を出し、そのなかで「事故直後の混乱状況において、吉田所長の命令が届かなかった所員も少なからずいたであろう」ということを明記し、第一報を補足することを上司に提案したのだった。
結論を言うと、私の提案は先送りされた。編集局長までは了承されたのだが、それより上の判断で「拒否」ではなく「先送り」されたのである。その理由は「7月上旬に申請する新聞協会賞の審査に水を差す」ということのようであった。社長が「吉田調書」報道で新聞協会賞を獲得することに意欲満々だというのである。
私は、にわかには信じられなかった。社長の顔色をうかがって「吉田調書」キャンペーンの狙いを丁寧に説明する続報に待ったをかけるのか?
それ以降、事態は悪化した。「吉田調書」報道の続報をどのタイミングでどう打ち出していくかは、特別報道部デスクの私の手元を離れ、編集担当役員や社長室長ら経営幹部たちが寄り集まって判断することになったのである。幹部たちの協議内容の一部は私に伝えられたが、すべては伝えられなかった。
第一報を報じて間もない時期、「吉田調書」報道に対する世間の批判がまだ少なかった時期の「初動対応」の失敗が、会社全体を揺るがす大スキャンダルに発展した最大の原因だと私は思っている。ふたりの取材記者が取材・執筆した第一報の記事そのものよりも、上層部がそれを補足する紙面展開に待ったをかけた「危機対応の失敗」が傷口を大きく広げたのだ。
隠された事実を掘り起こす調査報道は、第一報から100点満点の記事に仕上げるのは簡単ではない。とくに国家権力を相手にした場合、膨大な機密情報を持つ国家側は記事の弱点をつくことを狙って、自らに有利な情報だけを他のマスコミに流し、第一報に批判的な世論を煽って反撃に出ることはよくある。もちろん調査報道する側もそれを見越して最初からすべての情報を報じるわけではない。相手の反撃の仕方や世論の反応をみながら、「持ちネタ」を順次繰り出していくのである。ここは国家権力と報道のせめぎ合いだ(「文春砲」はそうした攻め方にたけている)。ときに国家側に攻め込まれ、軌道修正を迫られることもある。そういう時は迅速に対応し、世論の理解を得なければならない。常に世の中の動きを見ながら続報を繰り出す。国家権力を相手にリスクを背負って戦う調査報道の鉄則だ。
「吉田調書」報道に内在する「弱点」についても、迅速に率直に認め、読者に対して丁寧に説明していれば、あれほどの批判を招く展開は避けられたのではないか。この「危機対応」失敗の責任は、取材・執筆したふたりの記者にはない。すべての責任は私以上の管理職にある。
私は続報の手足を縛られた。会社の幹部たちは社長の顔色をみつつ、新聞協会賞選考への悪影響を避けることに懸命のようにみえた。実際、朝日新聞社は7月上旬に「吉田調書」報道を新聞協会賞に申請した。すべての取締役が承知したうえの判断である。彼らにすれば「社長の望む新聞協会賞の申請に無事にこぎつけた」という思いだったのかもしれない。第一報から一ヶ月半を過ぎた時点で、記事の「弱点」がすでに一部で指摘されていたにもかかわらず、社長以下の幹部は依然として「吉田調書」報道を新聞協会賞に申請するほど高く評価していたことになる。
こうした状況は8月5日まで続いた。その日、朝日新聞は、過去に報道した「済州島で200人の若い朝鮮人女性を『狩り出した』」という「吉田証言」が虚偽であることを認める従軍慰安婦報道の検証記事を掲載した。これに対し、朝日新聞が32年間も訂正しなかったこと、間違えを認めても謝罪しなかったことに批判が殺到したのである。これに呼応するように、原発事故をめぐる「吉田調書」報道に対する他メディアの批判も激しさを増してきた。
それでも朝日新聞の上層部は強気だった。編集担当役員や社長室長らが8月27日に「吉田証言」と「吉田調書」の危機管理について協議した後、「吉田調書」担当デスクである私には「朝日が引いたという風に思われないように」として「戦闘モード」で進むようにという指令が届いていた。上層部の指示は「一歩も引くな」だったのである。
事態が一変するのは、「池上コラム」問題が勃発した後だ。朝日新聞の慰安婦検証の対応を批判する池上彰氏のコラムについて、社長が紙面への掲載を認めなかったことが9月2日の週刊誌報道で発覚したのである。社内外から批判が噴出し、社長の進退問題に発展したのだ。
私たち特別報道部が手がけた「吉田調書」報道は、従軍慰安婦をめぐる「吉田証言」が虚偽だった問題や、社長が「池上コラム」掲載を拒否した問題とは何の関係もない。ところが、朝日新聞社は「吉田証言」「池上コラム」と「吉田調書」を危機管理上の「3点セット」としてひとくくりにし、経営陣が対応を直接指揮することにしたのである。「吉田調書」は私の手元から完全に離れたのだった。
「池上コラム」で社長の退任が不可避の情勢となるや、「吉田調書」の扱いは「一歩も引くな」から「全面降伏」へ急展開を遂げた。私は突如として特別報道部デスクを解任され「被疑者」扱いとなり、連日の事情聴取が始まったのだった。「社内権力闘争」の大きな力が動いているように感じた。
そして迎えた9月11日、朝日新聞社の社長は東京・築地の本社で記者会見し、社長自らが矢面に立つ「池上コラム」や「慰安婦」ではなく、社長が直接関与していなかった「吉田調書」を理由に引責辞任を表明したのである。そして「吉田調書」報道を取り消し、関係者を処罰すると宣言したのだった。
私は「取り消し」も「処罰」も寝耳に水だった。上司から「記事を何かしら訂正することは避けられないだろう」とは聞かされていたが、まさか記事全体が「取り消し」=「なかったこと」になるとは思ってもいなかった。すべては「池上コラム」問題が発覚した後、バタバタと音を立てて崩れていったのである。
私はこの時、編集局長や特別報道部長に加え、特別報道部次長(デスク)である私の「管理責任」「結果責任」が問われることは覚悟したが、まさか一線の取材記者二人が「処罰」されることになろうとは思いもしなかった。
ここに至る詳細な経緯は改めてしっかり書き残さなければならない。憲法改正をめざした安倍政権のメディアコントロール戦略、集団的自衛権の解釈変更などについて安倍政権への批判姿勢を鮮明にしていた当時の朝日新聞と安倍政権に接近しつつあったテレビ朝日の関係、そして朝日新聞社内の派閥闘争、新聞協会賞を2年連続受賞して影響力を増しつつあった特別報道部に対する社内の警戒感など、いくつもの事情が複雑に絡み合い、「吉田調書」報道は取り消しに追い込まれたのである。
この検証は極めて膨大な作業となる。その経緯を包括的かつ詳細に証言できるのは当時の社長や編集局長、特別報道部長らごくわずかであろう。末端管理職のデスクであった私も、その一人である。この問題にかかわった管理職で真相を公にする意思を持つ者は、今のところ私以外に見当たらない。
「吉田調書」報道の取り消しと取材記者の処分を境に、安倍政権に対するマスコミ報道の萎縮は加速度を増して強まっていく。それが安倍政権の長期化をもたらした大きな要因であるのは間違いない。この経緯の再検証は、日本のジャーナリズムを再建するため、朝日新聞がジャーナリズム精神を取り戻して信頼を回復するため、避けては通れない道だ。私はそう信じる。
朝日新聞社が当時紙面化した「吉田調書」報道の検証記事は、5月20日に記事が出稿されるまでに焦点をあてたものであり、取り消しに至る「事後対応」の真相にはほとんど触れていない。私は社内の事情聴取で「最大の失敗は第一報を報じた後の会社上層部の危機対応にあった」と強く主張したが、黙殺された。
私は新聞社を退社した後、「吉田調書」報道取り消しの検証作業に本格着手するつもりでいた。だが、この連載「新聞記者やめます」を開始して以降、「吉田調書の経緯を書いて欲しい」という依頼がたくさん寄せられている。それらの声に耳を傾けると、「吉田調書」報道取り消しの真相が世の中にまったく伝わっていないことを改めて実感した。そこで、きょうはそのさわりを書いたつもりである。
「吉田調書」報道を取り消す事態を招いた最大の原因は、会社上層部の危機管理の失敗である。その責任はあいまいにされ、ネット上で「捏造記者」とバッシングされた二人の取材記者と特別報道部に責任の大部分は転嫁されたのだった。
二人の取材記者は私より先に朝日新聞を去った。そして特別報道部は徐々に縮小され、この3月末、ついに廃止される。