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清和会落日前夜に森喜朗が地元紙のインタビューで語ったこと〜年内解散で検察捜査を吹き飛ばそうと最後まで画策していた?

自民党最大派閥の清和会(安倍派)が裏金事件で東京地検特捜部の捜査を受け、安倍晋三元首相の後継会長を争っていた5人衆(萩生田光一、西村康稔、松野博一、世耕弘成、高木毅の5氏)を含む数十人が政治資金パーティーの売上ノルマ超過分を裏金として受け取っていたことが発覚した後、清和会のドンとして君臨してきた森喜朗元首相が「雲隠れ」している。

森氏が地元紙の北國新聞(本社・金沢市)で政局について放談する連載インタビューは11月26日を最後に突然終了した。その後、12月5日夜には世耕・西村氏と東京都内の高級ホテルで会食。その際、黒塗りの車の後部座席に半ば体を横倒しにして能面のような顔で乗る姿がテレビカメラにとらえられたが、これを最後に動静が確認されていない。

永田町には「森氏が『介護施設に入るので外部と連絡がとれなくなる』と友人に告げた」との情報が駆け巡っている。真偽はともかく、表舞台から姿をくらまし、裏金事件にはダンマリを続けるつもりでいることは間違いなさそうだ。

ベテラン秘書は「まさに雲隠れ。森氏は清和会支配の終焉を覚悟したのだろう」と話している。

政治資金パーティーの売り上げ超過分をキックバックし、政治資金収支報告書に記載しないで裏金化する仕組みは、森氏が清和会会長時代から始まったと複数のメディアが報じている。

特捜部は清和会の収支報告書を作成した会計責任者の派閥職員を立件したうえ、派閥運営の責任者である事務総長を務めた松野、西村、高木3氏の関与を追及する方針だが、過去3代の派閥会長(安倍晋三元首相、細田博之前衆院議長、町村信孝元衆院議長)が他界した今、最も説明責任を果たすべき立場にあるのは、森氏のはずだ。

🔸清和会を再興

清和会は、自民党の派閥抗争が激化した1979年に旗揚げした。その前年、現職首相の福田赳夫は田中派(後の経世会、現茂木派)と大平派(宏池会、現岸田派)の派閥連合に総裁選で敗れ、非主流派に転落。福田は再起を期して派閥を結成し、「清和会」と命名した。中国の故事「政清人和」(清廉な政治は人民を穏やかにする)によるものだった。
福田の理想とは裏腹に、その後の清和会は保守本流と呼ばれた経世会・宏池会と激しい派閥抗争に明け暮れ、しかも敗れ続け、「保守傍流」と揶揄された。福田から会長を受け継いだ安倍晋太郎は首相就任を果たせぬまま67歳で病死。清和会は骨肉の内部抗争に突入して分裂し、混迷を深めた。
1998年に第4代会長に就任し、名称を「清和政策研究会」に改めて派閥を再興したのが、森氏である。経世会に接近して首相の座を射止め、宏池会を蹴落として主流派の地位を固めた。首相退任後も派閥のドンとして君臨し、清和会は小泉・安倍の長期政権を経て最大派閥にのしあがった。

清和会を台頭させた森氏が発案した「裏金づくりの仕組み」が清和会を滅ぼす起爆装置として炸裂したのなら歴史の皮肉というほかない。齢八十六。姿をくらました森氏は今、何を思うのか。

🔸最後の連載インタビュー

11月26日に北國新聞に掲載された森氏の連載インタビュー最終回は、検察捜査が迫るなかで、森氏が何を考えていたのかを探るにあたって示唆に富んでいる。

私が注目したのは、以下の3箇所だ。

麻生(太郎)さんはどこまで本気で岸田さんを支えるつもりか分からないし、茂木(敏充)幹事長も自分からは仕掛けられなくても次にやりたくてしょうがない。

森氏はここで岸田文雄首相を支える姿勢を鮮明にする一方、主流派の麻生太郎副総裁と茂木敏充幹事長に強烈な不信感をにじませている。

森氏は岸田政権下で、盟友の青木幹雄元官房長官とともに早大の後輩である岸田首相と時折会食し、茂木幹事長を交代させ、小渕優子氏を後任に起用するように働きかけてきた。さらに麻生氏の政敵である菅義偉前首相とも連携し、麻生・茂木の主流派に対抗する姿勢をみせていた。

この発言はその流れに沿っている。森氏にとって検察捜査は、麻生・茂木の意向に沿って清和会を壊滅に追い込む「国策捜査」と映っていただろう。

東京地検特捜部は、安倍政権が承知した東京五輪をめぐる汚職事件を手掛け、東京五輪組織委員会会長を務めた森氏や、安倍官邸で官房長官を務めた菅氏を強く牽制した。森氏が裏金事件を自民党内の権力闘争の図式でとらえていたのは間違いない。

近々また5人が集まるようです。5人には「次の選挙までには決めろ」と言っていますが、会長が決まりそうな雰囲気はありません。いつまでもグチグチ言ってないで、西村(康稔)さんなのか萩生田(光一)さんなのか早く誰かが覚悟と責任を示すべきです。減ったとはいえ99人の議員を抱えている大派閥なんですから。

次に5人組について、森氏はこのように語っている。

森氏は5人組のなかで萩生田氏を寵愛していた。大柄であること、ラクビー部出身であること、気の利いた言葉を吐くことなど、自らに似たタイプであることが気に入っていたと私は見ている。北國新聞の連載インタビューでも5人衆の他の4人を酷評する一方、萩生田氏のことは絶賛していた。

だが、他の4人は萩生田氏を安倍氏の後継会長にすることを承諾しなかった。このため、安倍派は5人衆による集団指導体制となったのである。

森氏はこれに不満だった。清和会を最大派閥に押し上げた百戦錬磨の策士は、圧倒的なリーダーがいない組織は脆く、すぐに切り崩されるという危機感を抱いていたのだろう。

森氏は後継派閥候補を萩生田氏と西村氏の二人に絞り、「次の選挙までに決めろ」と迫ってきたことを打ち明けている。世耕氏は近畿大学の理事長も務める実力者だが参院議員であり、松野氏と高木氏は存在感に欠け、いずれも首相候補としては弱いとみていたのだろう。

だが、森氏が指摘しているように「会長は決まりそうな雰囲気」はなかった。検察捜査は森氏の不吉な予感が的中したといえるかもしれない。

年内の衆院解散は見送りという報道が出ましたが、まだ分かりませんよ。岸田さん本人は何も言ってませんからね。党内をあっと言わせるために、解散に持ち込む可能性はまだありますよ。今の状況をがらっと変えるために、一度思い切ってやってもいいんじゃないですか。

最後の部分は、私がもっとも興味を抱いたところだ。

岸田首相は内閣支持率の続落を受け、年内の衆院解散・総選挙を見送る意向を党幹部に内々に伝えた。それが大きく報道され、岸田政権は一気に求心力を失い、そこへ検察捜査が追い討ちをかけたのである。

だが、森氏は年内解散について11月下旬の時点で「まだ分かりませんよ。岸田さん本人は何も言ってませんからね」と言い、「党内をあっと言わせるために、解散に持ち込む可能性はまだありますよ」と踏み込み、「今の状況をがらっと変えるために、一度思いこってやってもいいんじゃないですか」と、年内解散を薦めている。岸田首相は公の場で年内解散の見送りを明言していないのだから、まだ十分に可能性はあるというわけだ。

ここで森氏がいう「今の状況」というのは、内閣支持率が続落して岸田政権の求心力が大きく低下したことを意味するというのが普通の解釈だろうが、深読みすると「検察の裏金捜査が間近に迫る状況」とも解釈できる。

つまり衆院解散を断行することで検察捜査を吹き飛ばすことを、森氏は最後の最後まで画策したのではなかろうか。

森氏の意向をよそに、岸田首相は年内解散を見送り、検察捜査を受け入れた。安倍派や二階派だけではなく、岸田派も捜査線に浮上していると報道され、岸田首相は身動きがとれなくなった。今のところ、麻生派と茂木派は捜査対象から外れている。検察捜査は麻生・茂木の主流派を大きく後押ししている格好だ。

森氏は麻生・茂木の主流派との権力闘争に敗れたと自覚し、清和会の落日を悟って表舞台から姿を消したというのが私の見立てである。


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