きょうは4月1日。朝日新聞社の社長が代わる。
きょう退任する社長は「吉田調書」報道取り消しなど2014年の「一連の問題」で引責辞任した前任の社長から後継指名される形で就任した。その後、会社の業績は悪化の一途をたどったが、つねに「一連の問題」に原因を求め、デジタル時代における新聞社の構造改革の遅れを直視してこなかった。新聞発行部数は年々加速度をまして激減し、この会社の報道機関・言論機関としての影響力はすっかり陰った。いまや「バッシング(非難)」どころか「パッシング(無視)」される存在となってしまった。
この6年半、いったい何をしてきたのだろう。一社員からは「社長であること」が目的化した典型的な経営者に見えた。デジタル化の急なうねりに対応できるリーダーにはとても思えなかった。ついに明治12年の創業以来最悪の赤字に転落し、ギブアップしたのだった。
新社長は中村史郎さんである。政治部の先輩だ。「吉田調書」など一連の問題の時は編集局を離れて広告局長だった。それが幸いしたのかもしれない。朝日新聞社が当時、「信頼回復」策の柱として新設した「パブリックエディター」(社外の声を報道に反映させる仕組み)に唯一社内から就任し、その運営を仕切った。その後、編集局長、副社長ととんとん拍子に出世し、ついにトップの座をつかんだ。
この6年半の長期低迷期に新聞社中枢にいた責任は免れない。一方で、業績悪化を「一連の問題」のせいにして構造改革に十分に手をつけてこなかったという現状認識は持っているようである。内向きで官僚的な社風を一新し、萎縮した取材現場にジャーナリズムの活気を取り戻し、新聞社経営を再建できるのか。私は5月末に退社する身ではあるが、期待を込めてご健闘をお祈りしたい。
そこで、きょうは中村さんのエピソードをいくつか披露しよう。
中村さんは島根県の人である。松江南高校から東大へ進学し、1986年に朝日新聞に入社した。「都会育ち」と「田舎育ち」にわけるとすれば、典型的な「田舎育ち」である。四国の高松高校出身の私は政治部にきてまもない頃、中村さんからご自身の昔話を聞いて親しみを感じた。ずいぶん前の話なのでやや記憶はあいまいだが、おおむね以下のような話である。
東大受験のため上京する時、おばあちゃんが現金を上着の裏に縫い込んでくれた。何かあったらこれを使いなさいと。緊張して東京にのぼり、無事に受験を終えた後、時間が余った。そこで上着の現金を思い出し、それで国立博物館へ行こうと思い、タクシーを拾った。ところが、タクシーはなかなか国立博物館に到着しない。ぐるぐる遠回りしたあげく、ようやく着いたのだが、ずいぶんぼったくられてしまった……。
かつてタクシーにぼったくられた青年が、はたして経営難の新聞社を立て直せるのか。いくぶん不安は残るが、「中村青年」の真っ直ぐな人となりを示す逸話である(経営者になった今の人格は存じません)。
中村さんは政治部でとりわけ目立った記者ではなかった。ひとつ上の期に、のちに編集局長となる渡辺勉さんと、編集委員として政治コラムを執筆する曽我豪さんという「二大巨頭」がいて、中村さんは彼らの下で業務を的確にさばく仕事人というふうであった。曽我さんが平河クラブ(自民党担当)キャップの時、中村さんはサブキャップで、連日のように政治家と夜の街に繰り出す曽我さんをよそに、深夜までコツコツと原稿をさばいていた姿が思い浮かぶ。当時は曽我さんは「お父さん」、中村さんは「お母さん」と呼ばれていた。
それからしばらくして、政界やマスコミ界に精通した某宗教団体幹部が中村さんとはじめて会った時の感想として、私に「彼は出世する顔をしている」と語ったことがある。私は「政治部を主導しているのは曽我さんと渡辺さん。中村さんはその下でこき使われてかわいそう」と応じたのだが、彼は「いや、曽我さんや渡辺さんよりも中村さんだろう」と言い切ったのだった。今思うと、某幹部の先見の明に驚くほかない。
中村さんは政治部デスクや政治部長は歴任せず、北京特派員を経た後に国際報道部長になった。すでに新聞社は経費削減が大きな課題となっており、国際報道部長には特派員ポストを大胆に減らすミッションが課されていたが、中村さんは部員の声に耳を傾け、激しく切り込めなかったようである。
歴史に「もし」はないが、それでももし一期上の渡辺さんが「吉田調書」問題で編集局長を更迭されなければ、おそらく社長になっていたのは渡辺さんで、中村さんではなかったであろう。社内ではそうした見方が大勢だった。その意味では前社長と同様、「吉田調書」問題が生んだ社長といえる。「吉田調書」報道の担当デスクを務めた私も、中村さんの人生にいささかの影響を及ぼしたといえるかもしれない。
凋落する新聞社の再建は誰が担っても簡単なことではない。「堅実派」の中村さんが社長になって変身し、大胆な構造改革を断行できるのか。
実は私は編集局長時代の中村さんと一悶着あったのだが、きょうは新しい門出。近く会社を去りゆく身ながら、朝日新聞社の再建を願い、こころよりご健闘をお祈りしたい。