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新聞記者やめます。あと51日!【著作権との出会い〜「置かれた場所で咲きなさい」は本当だった】

「置かれた場所で咲きなさい」はカトリック修道女でノートルダム清心学園理事長だった渡辺和子さんの名著である。頭では理解できても私のような凡人にはとても実践できることではないと思っていたが、2014年に福島原発事故をめぐる「吉田調書」報道でデスクを更迭され、記者職まで外された後、私はその意味をすこしは体感できた気がしている。

特別報道部次長(デスク)から編集局長付を経て私が着任した新たな職場は「知的財産室」というところだった。私に懲戒処分を言い渡した取締役編集担当から「チザイに行ってもらう」と人事異動を告げられた時、「チザイ」と聞いてお恥ずかしながら漢字が思い浮かばなかった。私はまったくのビジネスオンチだったのだ。

知的財産室とは会社の持つ著作権を管理し、それらをもとにコンテンツビジネスを企画立案する「知的戦略部門」だ。私の会社の知財室には弁理士資格を持った社員もいる。少数精鋭の専門組織である。

私はといえば、大学の法学部を卒業したものの、著作権の知識はまるでなし。政治部では政局取材に、特別報道部では調査報道に明け暮れ、「コンテンツビジネス」など考えたこともなかった。まさに「ど素人」である。足手まといになるのは目に見えていた。

しかも私は傷心のどん底にいた。新聞協会賞を受賞し、ゴールデンタイムのテレビ番組にも出演し、編集局内で大手を振って歩いていたころは多くの同僚に取り巻かれていたのに、デスクを更迭されたとたん、彼らは蜘蛛の子を散らすように遠ざかっていった。社内を歩いていても、声をかけてくる人はほとんどいない。針のむしろだった。さらにネット上では「捏造記者」「売国奴」とバッシングされ、まさに奈落の底に突き落とされた気分だった。

みんな、悪気はない。とつぜん奈落の底に落ちた人に、どう声をかけていいのか、わからないだけだ。そうしたことに気づくまで、ずいぶん時間がかかった。だから同じように奈落の底に落ちた人を見かけたら、私は自分から声をかけるようにしている。そういうときは、みんな強がっていても、孤独なものだ。

小所帯の知財室の専門家たちは、そんな私を実に温かく迎えてくれた。自分たちの部署は懲戒処分を受けた新聞記者が編集局から一次避難する場所なのかという疑念もあったことだろう。彼らは私にそんな思いのかけらもみせず、親しみをもって受け入れてくれた。ただただ感謝しかない。私は毎朝出社すると、知的財産室の小部屋に身を隠すように駆け込んだ。

最初に与えられた仕事は、一日中パソコンの前に座ってネットサーフィンし、新聞社の記事の無断使用をひたすら探すという業務であった。情報が溢れかえるネットの世界で一人の社員が見つけ出せる「無断使用」などほんのわずかである。まずはネットの世界を知れというお達しと受け止め、私はツイッターをはじめとするSNSと1日中にらめっこすることにしたのである。

私はSNSというものをほとんど知らなかった。個人アカウントも持っていなかった。何とも旧態依然たる井の中の蛙の新聞記者だったのだ。初めて接するツイッターの世界から飛び込んできたのは、私の新聞社や私個人に対する罵詈雑言の数々だった。

ああ、「吉田調書」報道はこうしたネット世論によって打ち負かされたのだと実感したのである。私たちは私たちの「敵」をあまりに知らなさすぎたのだ。

当時のリベラル勢力はネット上で極めて弱小だった。私は新聞社の世界に閉じこもり、世間のことを何も知らなかったと大いに反省したのだった。これが私とツイッターの出会いである。ただ批判に耐えるのではなく、批判に打ち負けない発信力を身につけることが大切だと思うにようになったのだった。

次に与えられた業務は「著作権」を勉強することだった。私は大学時代以来、ジュリストを引っ張り出して判例を読み漁った。かつて国家公務員I種の一次筆記試験はパスしていたので、憲法や民法の基本は理解していたが、「著作権」はまったく知識がなかった。

新聞記者になって20年、思えば机に向かって勉強することなどほとんどなかった。ひたすら政治家や官僚を追いかけ、情報を入手することや分析することばかりしてきた。じっくり知識を蓄えることとは無縁だった。久々の「勉強」は楽しかった。法律知識がみるみる蘇ってきた。

数ヶ月すると、他の知財室員には及ばないにしても、編集局各部のデスクが問い合わせてくる著作権相談に対応できるくらいにはなった。相談にやってくるデスクたちの著作権の知識は実に乏しかった。かつての私がそうであったように。新聞記者というものがいかにスキルを大切にしてこなかったのかということを思い知ったのである。

そのうち私は著作権やコンテンツビジネスを学ぶため、社外の講習会に出席させてもらえるようになった。そこで出会ったのが、知財ビジネスに詳しい福井健策弁護士の講演である。あまりに面白く、5回は聴講した。福井弁護士の言わんとすることを私なりにかいつまんで読み解くと以下のようになる。

デジタル時代が到来し、誰もが自由に発信できる時代になった。YouTubeに、Facebookに、Instagramに、Netflixにコンテンツは溢れかえっている。完全に供給過多なのだ。著作権を守り、コンテンツの対価としてお金をもらうというビジネスモデルは、供給が少なく、需要が多い時代の遺物である。もう限界だ。グーテンベルクが活版印刷術を発明して以来、発展を続けてきた著作権の世界は、IT革命によって大きく変貌した。そこで生き残るのはグーグルやアップル、フェイスブック、アマゾンといった巨大プラットフォーマーだけであろう。ネットで代替できるものに、人はお金を払わない。ネットで代替できないもので稼ぐしかない。著作権に固執する時代は終わった。この大変革に対応できないと、メディアはあっという間に淘汰されていくだろう

実に鋭く時代を見抜く提言であった。会社に戻ると私の新聞社の経営陣たちは「総合メディア企業をめざす」と豪語していた。それはグーグルやアップルに立ち向かうという意味であることを理解しているのだろうか。彼らに対抗するほどの資金力や技術力をどう確保していくつもりだろうか。

デジタルの世界に国境はない。お金も情報も国境を超えてものすごいスピードで飛び交う。日本語の障壁も今やAIが取っ払っている。私は福井弁護士の講演を私の新聞社の経営陣たちに聞いてもらいたかった。ソフトバンクや楽天などの国内大手IT企業でさえ、グローバルな巨大プラットフォーマーに対抗するのは至難の技なのだ。

ものすごいスピードで凋落している新聞社がそれらに立ち向かう非現実性を直視し、「総合メディア企業」というお花畑の看板をまずは降ろし、ネットでは代替できない競争力のある分野、新聞社という大きな組織にしかできない社会的責務〜それは調査報道による権力監視だ!〜を磨くことを最優先とし、そこから現実的な収益モデルを築き上げていくべきではないのか。

私が新聞社を去って自ら「小さなメディア」となる決意をした出発点は、この知的財産室時代にある。SNSの世界と出会ったこと、著作権を学んだこと、コンテンツビジネスの限界を知ったこと。いずれもひとりで「小さなメディア」を立ち上げるには必須の知識だ。そしてそれらはいずれも新聞記者が「手を抜いてきた」分野であった。

現実を知れば知るほど社員を4000人も抱え「情報の総合デパート」をめざしてきた巨大新聞社に勝ち目はないことがわかってくる。だから現実を直視してこなかったのだろう。逆に小回りの効くひとりぼっちの「小さなメディア」には十分に活路がある。デジタル空間を主戦場にAIの力を借りて奔走すれば、社員を大勢抱え中途半端に図体の大きい新聞社よりも、ひとりで切り盛りする「小さなメディア」の方が、圧倒的に有利ではないか。

私は2年弱で知的財産室を卒業し、編集局に戻った。新しい職場であるGLOBE編集部では「進行管理」という業務を与えられた。記者たちが海外取材から持ちかえる大量の動画や写真をパソコンで管理し、社外のデザイン事務所とやりとりして、紙面を仕上げていく工程を管理する役目だった。パソコンが大の苦手な私にとって辛い仕事だった。だが、ここでパソコンとは何かをすこしは習得した。動画編集や写真編集の世界も垣間見た。

その後、言論サイト「論座」で編集者を務めた。多くの社外筆者と出会い、自由にサイトを編集する日々は楽しかった。SEO対策も学んだ。デスクを更迭された後の6年間で、期せずして「小さなメディア」を立ち上げる最低限のスキルを身につけたのだった。

「置かれた場所で咲く」ことはできなかったが、「置かれた場所で学ぶ」ことはできたのである。

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