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新聞記者やめます。あと11日!【「枝野ビジョン 支え合う日本」をさっそく読んだ〜「総理になる覚悟」はあるか?】

立憲民主党の枝野幸男代表が5月20日、総選挙を前に政権構想をまとめた「枝野ビジョン 支え合う日本」(文春新書)を刊行した。

さっそく読んだ。かなり率直に本音を吐露している。持ち前の論理展開力もさすがだ。このところ「枝野氏の顔が見えない」と思っていたが、野党の「総理候補」として挑む今年の総選挙に向けて勝負に出た一冊といえるだろう。

冒頭の逸話が面白い。1998年に新民主党が発足した後、当選2回の枝野氏は若手の同僚とともに当選3回の岡田克也氏に党代表選挙への出馬を要請した。ところが岡田氏は「総理になる準備ができていない」と一蹴したのである。枝野氏は「野党第一党の党首は総理候補であり、その準備もないのに手を挙げることは、国民に皆さんに対して無責任極まりない」とし、「そのことを明確に認識していた岡田さんの真面目さと真剣さに、私はたじろいだ」と振り返っている。

時は巡り、福島第一原発の事故が発生した2011年3月11日、枝野氏は菅直人総理のもとで官房長官を務めていた。菅総理は3月12日早朝、首相官邸からヘリで福島へ向かった。枝野氏はこの時、「万一の場合が頭をよぎり、私は背筋が寒くなった」と述懐している。枝野氏は「総理大臣臨時代理順位の第一位、総理に万一のことがあれば、この空前の危機に、トップリーダーとして対応しなければならない」立場にあったからだ。「官房長官等の一閣僚とは質的にも量的にも比べものにならない、総理が背負っているものの重さを、はじめて、みずからのこととして垣間見た瞬間だった」という。

枝野氏はこの本の執筆を、民主党が下野してから2年後の2014年ごろにはじめたという。「総理になる準備と覚悟を、執筆を通じて確認していきたい」という思いからであった。しかし、前原誠司氏と党首の座を争って敗れた2017年秋の民進党代表選の時には書き上げるに至らなかったという。枝野氏自身は2017年代表選出馬の時点で「総理になる覚悟」が整ったと綴っているが、実はその時点では「総理になる覚悟」が十分に固まっていなかったのではないかと私はみている。

その後、前原氏は2017年総選挙の目前に小池百合子・東京都知事が立ち上げた希望の党への合流を電撃的に表明したのだが、枝野氏ら一部議員は小池氏に「排除」され、追い詰められた。そこで旗揚げしたのが、立憲民主党である。与党第一党の自民党と野党第一党の希望の党に少数政党の立場で挑んだこの総選挙で、枝野氏の街頭演説は魅力的だった。「右でも左でもなく、前へ!」という訴えからは、枝野氏の切迫感が伝わってきた。私は当時、以下のツイートをしている。この時の枝野氏は輝いていた。

希望の党はこの総選挙で空中分解し、立憲民主党が野党第一党に浮上。枝野氏は期せずして野党第一党の党首(つまり野党の総理候補)に躍り出たのである。この時点でも「総理になる覚悟」は固まっていなかったと私は思っている。

その後の枝野氏は「野党第一党の党首」の座を守りはじめたように見えた。無理もない。生まれたばかりの立憲民主党に実績のある政治家は少なく、希望の党が瓦解して出来た国民民主党の顔ぶれに見劣りした。さらに2019年参院選では山本太郎氏が率いるれいわ新選組が「消費減税」を掲げて台頭。枝野氏は国民民主とれいわの「左右」から挟み撃ちにされ、「野党第一党の党首」を死守する内向きの姿勢に終始しているように見えた。とくにカリスマ性のある山本太郎氏への警戒感は尋常ではなく、山本太郎氏の目玉政策である「消費減税」をかたくなに拒んでいるようであった。

枝野氏を最側近として支えるのは福山哲郎幹事長である。福山氏は前原氏と枝野氏がともに所属していた党内グループで事務局長的な役割を長年務めた。前原氏と同じ京都選出なのだが、実は彼が最も入れ込んできたのは枝野氏だった。私が2001年に民主党を初めて担当した時、福山氏は「この党の将来は『EM』しかないよ」と漏らした。Eは枝野氏、Mは前原氏である。私が「福山さんは京都でしょ。『ME』と言わなくていいんですか」と尋ねると、福山氏は笑って受け流した。案の定、2017年総選挙で枝野氏と前原氏が袂を分かった時、福山氏は枝野陣営に馳せ参じ、立憲民主党ナンバー2の幹事長に就いたのである。

その福山氏はいまや「枝野氏の防波堤」である。面倒くさがりの枝野氏に変わり、党内調整や実務を一手に引き受けている。それが「福山氏が枝野氏を囲っている」と映り、党内の不満を一身に浴びているようだ。党内基盤が強くない枝野氏にとって福山氏は欠かせない「盟友」なのであろう。

山本太郎氏の勢いがかげり、国民民主党との合流も実現した。菅義偉政権との初対決となった今春の国政選挙でも全勝し、野党第一党の党首(つまり総理候補)としての枝野氏の地位は安定してきた。自民党と「総理大臣」の座を争う総選挙に向けて枝野氏の心もようやく落ち着いてきたのではないか。そこで足掛け8年で書き上げた「枝野ビジョン」の出版である。「総理になる覚悟」はついに固まったとみていいだろう。

民主党政権が誕生した当初、猟官運動に乗り遅れて二ヶ月も無役で「蚊帳の外」だったこと。福島原発事故の直後に官房長官として発言した「直ちに健康に影響はない」が各方面から批判されたが、今もどう表現すれば「正解」だったのか自問していること…。枝野氏自身は本書を「少し理屈っぽくて難しい、『理念』について記した」としているが、思いのほか率直な心情が綴られていると私は感じた。

国民民主党との合流で揺れ続けていた原発政策についても「原子力発電を現実にやめていくことへの責任を痛感しており、その決意は変わらない」と明記している。「支え合う日本」を実現するための経済政策についても、消費増税などの大衆増税を棚上げしてベーシック・サービスの充実を先行させることや累進課税の強化など「富の再分配」を進める諸政策に踏み込んでいる。「支え合う日本」へのビジョンを示す政権構想として高く評価できよう。

ひとつ気になったのは、官房長官として対応した福島原発事故の記述である。枝野氏は「初動の段階から『情報は隠すな。全部出せ』と繰り返し指示を出し、私が知っている情報は包み隠さず発信した」と書いている。当時政治部デスクとして菅直人政権の取材を陣頭指揮し、そののち特別報道部デスクとして福島第一原発所長の聴取内容を記録した「吉田調書」を独自入手し報じた私としては、枝野氏が事故直後、「東日本が壊滅する危機にあった」という事実を知らなかったはずはないと確信している。枝野氏はそれを国民に知らせなかった。「パニックを避けるためにどこまで情報を発信するか悩み抜いた」ではなく「知っている情報は包み隠さず発信した」という総括は、ジャーナリストとしては黙認できない部分である。この点は、枝野氏が総理を目指す過程において、あるいは総理になった暁に、必ず蒸し返されるであろう。いまのうちから理論武装しておいたほうがよい。

もうひとつ注文がある。与野党が激突する小選挙区制が導入された1996年以降の総選挙で、自民党総裁と「総理大臣の座」を争った党首は、小沢一郎氏(1996年)、鳩山由紀夫氏(2000年)、菅直人氏(2003年)、岡田克也氏(2005年)、鳩山由紀夫氏(2009年)、野田佳彦氏(2012年)、海江田万里氏(2014年)である(2017年は希望の党の小池百合子都知事が総理を目指す立場にあったが、彼女は衆院選出馬を見送り戦わずして敗れた)。ご覧のとおり、二度挑戦したのは鳩山氏だけだ。鳩山氏は二度目の挑戦で総理になったが、初回の挑戦で敗れた後は数年間、雌伏の時を経た。

枝野氏は29歳で政界デビューし、若くして頭角を現した。まもなく57歳である。本人は今回の総選挙が「総理への最後の挑戦」と考えていないかもしれない。枝野氏は聡明だ。今回の総選挙で政権奪取に至らなくても、その後の政局展開を想定していることだろう。そうした「半身の姿勢」は必ず有権者に見透かされる。それは最大の弱点となりうるのだ。

総理への挑戦は何度もできない。今回の総選挙が「最後のチャンス」と腹を固め、不退転の決意で挑むことができるか。仮に立憲民主党が議席を伸ばしても、野党が過半数に達しなければ、それは「躍進」ではない。それが二大政党制だ。総選挙後に衆議院で行われる総理大臣指名選挙で枝野氏が勝利して「枝野政権」が誕生しない限りは「敗北」なのだ。

「支え合う日本」を実現する大胆な政策とインパクトのある「次の内閣」を掲げ、今年の総選挙に「背水の陣」で挑むことができるか。退路を断たなくては、有権者に「総理になる覚悟」は届くまい。

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